2013. 03. 31  
DSCF4014_convert_20130331224406.jpg  近くの小川の桜が満開です









 人の一生は、人との出会いで決まると思っています。もし、あの人と出会っていなかったら、自分の人生は変わったものになっているだろうなと思うことがあります。
 私の今までの人生で、もしあの方と会っていなかったらもっと違った人生になっていただろうなと思う人が、何人かいます。親との出会い、子との出会いは別格ですのでそれ以外で書いてみます。
 

① かみさん
  
 かみさんと出会っていなかったら、今の自分はなかったでしょう。教師にもなっていなかったと思っています。かみさんとの出会いは私の人生にとって最大のことだと思っています。

② A校長
 
 管理職への道を開いていただいた今は亡き校長先生。この校長先生と出会っていなかったら校長にはなっていなかったでしょう。

③ B次長
 
 サラリーマンとして勤務していましたときの、直接の上司。以前の「サラリーマンから教師へ」にも書いていますが、次長の配慮で、会社を辞めず親子3人路頭に迷うことなく、スムースに無職の期間なく教師になることができました。

④ 長女を預かってくれたSさん

  昔は保育所の開所が遅く、早くし待っていたため、朝、夕と一時預かっていただいた方。この方のお陰で、共 働きを続けることができました。慌ただしい毎日の中で、ゆったりと接していただき長女の性格が穏やかに落ち 着くことができたのです。

⑤ 日赤の看護婦Cさん

 命の尊さを教えてくれ、お金がなくても出産できる方法(助産婦制度)を紹介して頂いたり、その他、色々お世話になりました。お陰で、長女を出産し育てることができたのです。

⑥ お向かいの奥さん

 次女を保育所に行くまでの間預かっていただき、わが子のように可愛がっていただき、次女は、落ち着いた幼少期を過ごすことができました。

⑦ 教育委員会の上司D参事

 アウトサイダー的存在の私を支持し、何かと助言いただき、教育委員会での存在を確かなものにしていただきました。後に市の収入役になられた方ですが、公務員のあり方を教えていただきました。

⑧ 食堂のご夫婦
 
 一番苦しい時代に何かと、力づけていただき、教師への道を目指していた頃の応援者です。試験勉強の部屋を貸していただいたり、時に食事を頂いたり、くじけそうになる気持ちを励ましていただきました。小さな食堂を、立派な食堂にされていくご夫婦の生き方は、とても学ぶことの多いものでした。

⑨ 校長になったときの教頭先生
 
 腰を痛めたり、喘息発作が出たりと体調不良の私に変わって、学校をしっかり固めてくれ、本当に信頼できる教頭先生でした。この教頭先生のお陰で辞めずに続けることができたと今でも感謝しています。

⑩ 初任者の時担任した子ども達

 教師の楽しさを感じさせてくれ、教師としての自信をつけさせてくれた子ども達です。その中心の女の子はもうこの世には居ませんが、脳裏に鮮明に彼女の姿が焼き付いています。この時のクラスが、その後の私の学級経営のモデルになったものでした。


 10人しか書きませんでしたが、本当はもっともっと多くの人々との出会いで私の人生は変わってきました。そしてその出会いが、嫌な出会いが少なく、良い出会いが多かったように思います。それが幸せだったなあと感じます。そして、如何に自分が多くの人々に支えられながら今日に至っているかを実感します。
 今も、ブログ上ではありますがとっても素的な方々との出会いに感謝しています。


2013. 03. 30  
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 飛行機には55日前、45日前、28日前に予約すると割安になると、宣伝しています。これがくせ者で、キャンセル料はいつにかかわらず5割取られます。おまけに、飛行機には子ども半額制度はありません。だから、子どもがいる場合は、気をつけなければ新幹線よりかえって高くなります。それに飛行場までのリムジンやモノレール台を入れると、早割とて決して安くはありません。新幹線の方が安くなる場合があります。新幹線の良いところは1ヶ月前から1週間前までの早割があり、キャンセルしても日にちさえあれば5割もボッタクられません。
私のように、体調不安の者には、飛行機の早割は不適です。
 時間も、乗ってる時間は飛行機が短いのですが、そこに行くまでの時間と事前の時間を考えますと、これも新幹線と変わりません。おまけに天候に左右されやすく、欠航になる確率は、新幹線と比べると数倍確率的に高くなります。
 安い物には、裏があるという典型でもあるというのが、この飛行機の早割だなと気づきました。飛行機の早割は時に、「安物買いの銭失い」になることを知っておくべきだと思います。東京、熊本などへ行くときは、2度と飛行機の早割は使わないぞ、(まして小さい孫連れの時だったら尚更)と決心したよたろうです。


2013. 03. 29  
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よたろう奮戦記」を書こうと思ったのですが、書き始めて、書きながらなんかむなしい気がしてならなくなりました。赴任先の学校は確かにたいへんな学校でしたが、その時の色々な出来事を書いていましたら結局、先生の悪口と自慢のような気がしてきました。今更、そのことを書いても、何の感動もなく誰かの参考になるでもないような気がしてきたのです。そこで、やっぱり、この稿については、やめることにしました。
 何かもっと、読む人が楽しくなったり、参考になったり、考えたりできる内容ににしたいと思っています。ダメ教師のダメなことを書いても、気分が悪くなるだけですので、良い先生のいい話を書けたらいいなと思っています。ブログはやっぱり、書いてる人も、読んでる人も楽しくなければダメだなと思っています。
2013. 03. 28  
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 学級崩壊し、担任の先生は、ガンで休職、ピンチの状況でしたが、後任の先生が、やってきました。新卒の女性の方とだけ聞いていましたので、校長室でそわそわしながら待っていました。
「おはようございます。」と職員室の方で声が聞こえ、教頭先生が案内して連れてきてくれました。第一印象は、がっちりした、中肉中背の若さあふれる女性でした。柔道をやっている方で2段の腕前です。スポーツマンらしくはきはきとしていて、とても好感の持てる方でした。一見柔道をしているような感じはしない、普通の体型でどちらかと言えば美人の部類の女性でした。


 担任して貰うクラスの様子などを話し、大変だと思うが頑張ってほしい事を依頼しました。普通なら、緊張した顔をするものですが、特にそれもなく「分かりました。がんばります。」の言葉で、この新卒の先生は、肝の据わった人だと感じきっと上手くやってくれると思いました。とにかく、全面的支援をすることを話し、何か、心配なことはないですかと尋ねると、
「私は、小学校から歴史が嫌いで、どう教えたらいいか不安です。」と言われました。私は、歴史は大好きで、社会科教師です。
「それでしたら、1つの単元8時間分、私が授業をしますから見ていて、どう進めたらいいか勉強してください。」と言って、社会科は私がしばらく担当することにしました。
 教室に先生を連れて行って子どもに紹介しました。子ども達は、どんな先生か興味津々で話もしっかり聞いていました。ひとまず出会いは成功です。先生の得意は柔道の話をし、毎週近くの警察の道場に練習しに行っていることなどを話しますと、ワンパクどもの顔が一瞬引き締まったように見えました。
 とにかく、何でも一生懸命にやってくれる先生で、若さと活力ですぐに子どもを引きつけたようです。授業の事やら教科の事やらは放課後色々話して勉強して貰いました。参考になる本を貸したり、教育新聞を買うように進めたりしました。何でも、乾いた水にしみ込むように、どんどん吸収してくれました。
 

 あれほど荒れていたクラスも、1ヶ月もすると驚くほど落ち着いてきました。授業も時々見に行ったのですが、お世辞にも上手い授業ではないのですが、先生も、子どもも楽しげにやっているのに感心させられました。休み時間も子ども達に囲まれ、ワンパクどもは力比べであっさり負けていました。とにかく、何があっても動揺しない先生でした。
 こんなラッキーなことはめったにありません。良い先生を配置して貰った友人の人事課長にお礼の電話をしたものでした。
 運動会、修学旅行と行事の度に、まとまっていくクラスに感心し、先生に感謝したものでした。
 

 そして卒業式を間近に迎えて日に、保護者代表から、
「卒業式の日に、先生に、感謝の花束を贈りたいがいいですか」と言う相談まで受けました。この学校はそんな習慣のない学校でしたので、私は、「どうせやるなら、他のクラスもやってほしいと」依頼しました。ある委員さんは「私たちのクラスでは、そんなに先生に感謝してないのでいらんわ。」と言われたりもしましたが、もし一人だけ、花束を貰うと、貰った若い先生が気まずくなるような気がしましたので、何とか説得して全てのクラスの先生に花束を渡して貰うようにしました。
 

 私は、教育は技術だけではなく、人間性が大切なことをこの若い先生から改めて学びました。また、子どもがこれはかなわないという特技を持つことも教師の武器になると言うことも実感しました。
 約1年間厳しいときもあったでしょうが、愚痴1つこぼさず、いつも笑顔で、堂々子どもと接していた先生に、感謝と敬意を表せざるを得ませんでした。
 臨時講師の更改には継続して勤めて貰うように、委員会にも依頼して3年間、勤めて貰いました。私が、転校後、当時の教頭先生が校長になられた学校に引っ張られ、そこで本採用の切符を手に入れたとの便りを貰いました。


2013. 03. 27  
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今回の東京行きは、学位授与式に参加することと、結婚式場、披露宴会場を一目見に行くことが目的でした。式場は、問題ないのですが、披露宴会場について娘と彼のお母さんが気に入っていた会場を、私たちの勝手でキャンセルし、娘が一人で探した会場です。最初言われていた会場にするために、何の努力もせず、断らせてしまったことにとても後悔しています。一生に一度の事なので娘が一番望むようにこちらが合わせてやるといった、親心が不足していたなと、とても今は、胸が痛みます。会場から、衣装から様々な段取りから一人で色々決めて来た娘の大変さを思い、どうして、暇人夫婦なのに行ってやらなかったのか、世間の親から見てもおかしな親だなとふと気づいたものでした。娘に申し訳ない気持ちがあります。

はじめに話があったとき、式が朝でも、どうして、こちらの親戚もみんな前日に泊まらせてやれば、問題なかったはずなのに、そうせず、式を昼からにさせて、披露宴の会場も変更させてしまったことがとても悔やまれます。決めた会場も決して悪くはなく、歴史のある由緒正しいホテルですが、娘は本当は、はじめに言っていたところでやりたかったなあと思っているにちがいないと思うと、その願いを叶えさせてやらなかった浅はかさに、馬鹿さ加減に自己嫌悪に陥ってしまいます。
 結婚式の前夜に、親子が一緒にいないのもおかしいと気づかないほどボケて来た自分が情けないです。先特割引き航空券をキャンセルして、前日に、家族でホテルに泊まることにしました。どうしてはじめから、そうしなかったのか悔やんでも悔やみきれない思いです。
 でももう今更、変更はききませんので、この会場で最高の披露宴になることを祈っています。 
2013. 03. 26  
24日、25日と東京に行ってきました。24日は、在京の中学校の同窓会に行って来ました。小、中学校一校でしたので9年間の同窓生です。中には、高校、大学まで一しょっだった友人と再会し感激しました。来年は、大阪でやるような話になっていました。3時間ばかり過ごして、娘との約束の銀座ドコモ店にいって,乗り換え手続きが
3時間もかかりました。まだ学生のうちに学生割引3年、家族もというTVでAKBが宣伝しているやつです。携帯が変わって、又機能を捜すのに手間がかかって嫌になっています。
 夜は少し遅めになりましたが、銀座の資生堂パーラーで夕食を取りました。結構有名なお店です。同窓会で4過ぎまで、飲み放題の居酒屋で食べまくりましたのでそれほど私はおなかが減っていなかったのですが、コースは食べきれないので、オマールエビとホタテの温野菜添えとサラダセットにしました。そこそこの値段とそこそこの味でした。食事後、娘と別れて、ホテルに向かいました。ホテルについたのは午後10時30分。楽しみにしていた、展望風呂は受付が過ぎていてガックリでした。窓からは、レインボーブリッジがきれいに見えていました。サービス期間中の、シャンパンを飲んだら、13000歩の疲れが出て、寝てしまいました。

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翌日が学位授与式でした。何の研究をしているか今ひとつ分かりませんでしたし、無事に学位を授与されて本当に良かったと思いますし、これまでの担当の先生や、もう今は夫になった彼に感謝しています。授与式はお台場の先の、国際展示場と言うところでありました。修士、博士の学生が1000人以上、その保護者が3倍ぐらいで人数の多さにびっくりしました。今年は、いつもの講堂が改修中なのでこの広い会場になったようです。例年なら親子が一堂に会することはないようですが今年は一堂に会することになったと、学長の挨拶にありました。
   お昼は、娘がよく言っていた食堂に行って、美味しい焼き魚定食を頂きました。親切な大将にお礼を言って、出ました。それから、研究室に向かいました。とても穏やかな先生で、この先生だから、娘も持ったのかなと思いました。もっと厳しい先生だったら、つぶれていただろうなとつくづくお会いして、改めて、感謝しました

(築地本願寺)

 娘と別れて、結婚式を行う築地の本願寺を見て、疲れ切って飛行場に向かいました2日間で24000歩歩きました。やれやれという感じです。

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 娘と別れて、結婚式を行う築地の本願寺を見て、疲れ切って飛行場に向かいました2日間で24000歩歩きました。やれやれという感じです。お疲れの仕上げは、乗った飛行機が、空港が混雑して、降りられず30分以上も空中を旋回して、40分遅れて無事に着陸しました。飛行機で何かあると心拍数が上がります。
 年寄りには、嬉しいけれど、過酷な2日間でした。
2013. 03. 24  
今日は「よたろう奮戦記」を一休みして、我が家のことについて書きます。予約投稿です。

私が40歳、かみさんが39歳の時に生まれた次女が明日25日、大学院を卒業します。
何博士か知りませんが、一応、博士号を授与されるようです。昔なら、「末は博士か大臣か」と言われたものですが、今では就職もままならない時代です。
 卒業式は東京ですので、ちょうど24日には、在京の中学校同窓会がありますのでその参加もするために、今日、東京にいます。
 来たついでに、結婚式場、仏式ですので、築地の本願寺を見て披露宴のホテルの下見に行ってきます。同窓会は、昼ですので、夜は娘と久しぶりに美味しいものでも食べようかなと思っています。その様子は、帰ってから又報告します。
2013. 03. 23  
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6年生の学級崩壊は、完全には収まらず、目を離せない状態でした。担任も日に日に血色が悪くなるのが分かりました。それでも、責任感の強い先生でしたので休まず毎日学校に来て悪戦苦闘していました。あまりの疲れた様子に
「先生、顔色悪いよ。一度検査してもらって。」
と担任に検査の要請をしました。
病院に行って検査を市に行ってくれました。結果は、最悪でした。やはり、ガンの再発が見られるとのことでした。すぐに休暇の手続きをして、治療に専念して貰うことになりました。たまたま自宅が近くでしたので必要な書類は私の自宅に持ってきてくれました。3ヶ月に1回病欠更新しなければならなかったのです。
 事前にその先生の色々な情報を集め、本人の様子も見て、いけると判断したのですが、やはり、ガンは怖いです。本人も自分は大丈夫だと思って受けてくれたのですが、やはりストレスが再発の要因ではと思います。荒れたクラスでなかったら、そんなに荒れるクラスと分かっていたらと後悔しました。先生は、その後、5年ぐらいの闘病の後亡くなられました。
 組合員の集まりでは、私は、ガンの教師に大変なクラスを担任させた極悪非道の非情な校長と陰口叩かれていたそうです。ガンの再発を予見できなかった自分が悔しかったですし、心の痛みを感じていました。たらの話をしてもしようがないのですが、この先生を6年生担任にしていなかったら、もっと命ながらえたのではと、今でも心の奥に何かつかえたものを感じています。
 よほど仲の良かったご夫婦先生だったのか、奥さんの先生が亡くなられて1年後ご主人の先生も後を追うようにガンで亡くなられたと聞きました。

 学校での方は、急に先生が休まれたので後任を探さなければなりません。しかし、5月には、臨時講師も既に全て決まりどこの市も待機者はいませんでした。しばらくは校長、教頭、専科教員等で何とかクラスを見ていましたが、どうにも動きが取れなくなってきていました。
 そんなとき自分の出身の市の人事担当から、昨日、卒業したての女性が講師登録があったので、私の学校に回してくれるべく、市の人事課同士が手続きをしてくれたのです。その時ほど、持つべきは友と思ったことはありませんでした。
 かろうじて、5月半ばに、担任を確保できました。新卒の女の先生でした。荒れたクラス、全面バックアップの覚悟で、迎えました。    つづく 
 
2013. 03. 22  
無題
入学式の準備のため全員が出勤してきました4月4日に全員がはじめて顔を合わせる事が出来ました。教頭とは翌日には会って色々話してはおりました。式の準備が終わって、担任の発表をしました。それまでに、事前に電話等で折衝しておりましたのでその日は、一応苦情もなく通りました。小学校の担任の決め方は従来から、まず、個々の先生の希望を第1から第3希望まで取り、第1希望、第2希望の通りの場合は、何も事前に話し合うこともなく、第3希望や希望外の学年になったときは事前に相談するのが慣例でした。
 希望がうまくわかれればよいのですが、高学年希望者は毎年ほとんどありません。以前は、2年間持ち上がりでしたが、学級崩壊が問題になるにつれ、単年度担任制に移行してきました。個人的に持ち上がっても制度として2年間担任と言うところはおそらく全国的にもないのではと思います。だから、管理職も2年に1回担任を考えておれば良かったのですが、毎年担任決めで頭を悩ますことになるのです。
 そのうち、高学年ばかり担任の5,6,5.6(ゴロゴロ)先生や 、低学年しか担任しない1,2,1,2(イチニイチニ)先生が誕生するのです。私は、自分が教諭をやっているときは、1年から6年までまんべんなく経験することが必要と考え教諭19年間で各3回ずつ担任していました。全学年を体験してこそ、どの学年のどんなところが次の学年へとつながるかと言うことが分かり、今、自分が担任している学年の課題が明確になるのです。
 高学年の方が、学校行事の世話や授業内容の高度化でしんどいのは間違いありません。しかし、小学校の教師は、高学年専科、低学年専科の免許ではないのです。どの学年でも担任できる力を、身につける努力をしておくべきだと思いますし、どの学年でも担任すべきだと思います。厳しいようですが、それができない教師は失格だとも思っています。
 私の赴任した学校でも、6年生担任が最後まで決められませんでした。転勤組の先生の中で、実績のある先生がいましたので声をかけ依頼しました。ただ1つ引っかかっていたことは、前任校で、ガンを発症していたことです。その事を知って、前任校の校長や、教育委員会に状況を聞いたり、本人にやれる状態か聞いたりして、何年か経っているのでやれるという返答を貰い、その先生を6年生担任にしました。

 ところが、その学年が大変な学年で、4月早々から大暴れの学級でした。何回か 教頭とも支援にクラスに向かったりしていましたが、どうにも収まらず、暴れる子ども8人は教室に入れさせず、毎朝、校長室に登校させ校長室で私が勉強を見てやることにしました。学力は一人をのぞいて、かけ算九九も正確に言えない子ども達でした。どうしてここまで低学力のままにしておいたのか、腹も立ってきました。2週間もすると、子どもの方から教室に戻りたいという声が出て来ましたので、全員の前で、今後暴れたり抜け出したりしませんという約束が言えるか確認し、みんなの前で宣言し教室に戻りました。
 しかし、一度荒れたクラスはそう簡単には戻りません。以前よりもましにはなりましたが、ちょっと目を離すと脱走する者もいましたので、校内巡視は欠かせませんでした。以前の8人以外の、Aと言う子は常に反抗的で教師の言うことを聞かず好き勝手な行動をしていましたので、生徒指導室に呼び話を聞くことになったのですが、部屋に入ろうとしないのです。部屋にはいるように指示命令すると「何でおまえに命令されなければ、おまえは何の権限があって言うのや。」とくってかかるのです。「わしは、校長や。とにかく中に入って話そう。」と手を引っ張ろうとしたら暴れ出したので、捕まえて投げて押さえ込み2人で部屋に入れました。この行為は、今なら体罰と言われそうです。とにかく興奮が収まるのを待ち、教頭、生活指導の先生と話をしました。Aは4年の頃に転校してきた子で、家庭的に色々問題がある子でした。地域でも同級生の友達よりも、中学で問題の子達と遊んでいました。指導はとても難しい子でした。嵐のような ひと月が過ぎました。 つづく


2013. 03. 22  
 昔、春風亭柳昇という落語家の軍隊体験談「与太郎戦記」という本がヒットし、フランキー堺主演で映画化もされた本があります。私のネーム、「よたろう」は実名からもじったものですが意識の中に、この「与太郎」の名前がありました。「与太郎戦記」は、本当の戦争体験談ですが、わたしの「よたろう奮戦記」は、教育現場という戦場?で、指揮官としての校長として動戦いあがいてきたかを記憶を頼りに書いてみたいと思います。今までに、放れたことも重複するかも知れませんが、やや痴呆症がかってきていると思ってお許し願いたく思います。 
 
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 「発登校」

 私は、当時年齢制限55才で、校長試験に合格を貰いましたが、自分の市には、校長の空きがなく、隣の市の校長の枠を1つ、教育長の働きで貸していただきそこに赴任することになりました。辞令を3月31日にもらい、よく4月1日が、校長としての初出勤です。
 どんな学校だろうか、どんな先生方との出会いがあるだろうか、そして、どんな子ども達が居てくれるのだろうかと期待半分不安半分で、30分ぐらい自転車のペダルを踏んで学校に向かいました。
 学校は、児童数800人近く、職員数40人ぐらいの当時としては結構大規模校でした。
 緊張しながら校門をくぐり、自転車を置いて、職員室に向かいました。学校についてから誰一人とも出会いません。不思議に思いながら、職員室の入り口の戸を叩き、多くの先生方の視線を感じることを予想して、ちょっと緊張して戸を開けて、「おはようございます。」と大きい声で挨拶しました。その瞬間、信じられない光景に出会いました。職員室には後ろの窓際の籍に、女の先生がただ一人座っていました。他には誰もいません。
 「おはようございます。どちらさまですか。」
 「今度、ここの校長として赴任してきました、よたろうです。」
 「あ、失礼しました。どうぞ、校長室にお入りください。」
 職員室とドア1つで繋がった校長室に案内され、お茶を頂きました。当時は、春休み、夏休み、冬休みの長期休校の時は教職員も日直を残して、出勤は自由の状態でした。まさに、「先生って、よろしいな。長い休みがあって。」とよく言われたものでした。全国的にもそんな状況で、まさに「親方日の丸」でした。
 今でこそ、長期休校は、子どもは休みでも、教師は休みではないという考え方が普通になっていますが以前はそうではなかったのです。 
 しかし、4月1日は異動者が学校に来る日です。全職員が出勤して顔合わせをするのが、私の市の慣例でもありました。隣の市にはそんな慣例はなかったのです。校長が変わると言っても、職員は出勤していないことからも、如何に校長がないがしろにされているかを感じました。
 校長室で、前任者の引き継ぎ事項が書かれた文章を読みながら、新しく転勤してきた先生、新任の先生を迎えました。前任者は、次の担任も確定せずおおよその案だけを置いていってありましたので、すぐにいくつかの資料を見ながら、新担任の案を考えて、帰路につきました。帰りは、今日一日のあり得ない出来事に加えて、緩やかな上り坂になっていますので、ペダルがことさら重く感じました。
 しかし、持ち前の負けず嫌いが頭をもたげ、「よおーし」と新たな闘争心がもえたものでした。まさにゼロからの出発だとも思いましたし、これ以下になることないという気楽さもありました。「よたろう奮戦記」の始まりです。 

 つづく

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プロフィール

よたろう

Author:よたろう
経歴:
元自動車セールスマン、
元 教師、
元 教育委員会指導主事、
元 校長、
現在:フリーター
子 2人 ,2人とも結婚  
孫 3人
 経歴だけ見たら、すごく真面目で、堅物のようですが、いたって普通のジジです。ボケ防止のためにもブログを開設しました。多くの方々と交流できたらと思っています。
子育て、教育、政治、よもやま話しませんか。

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