2013. 01. 31  
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 今日、1月31日は、「愛妻の日」だそうです。1は英語でアイと読み、31はサイと読んで「愛妻」と語呂合わせをしたようです。日本人は何かにつけて語呂合わせで、○○の日とするのが好きですね。
 愛妻の日ですよと言われて、何かをプレゼントすることもない我が家です。今まで、44年間、かみさんにプレゼンとなるものをしたことはありません。なぜなら、我が家はお小遣い制ではなく、必要なときにそれぞれが使ってきたからです。家にあるお金は、二人のものでそれぞれが必要なものや欲しいものはお互いに言ってから買ってきました。お互い小遣いなんてなかったので、プレゼントをあげるなんて習慣はないのです。収入に応じて、欲しいもの必要なものをお互いが買う習慣なのです。

 プレゼントと言えば「おめでとう」とか「ありがとう」とかの言葉ぐらいです。「愛妻の日」と言うことで、改めて、かみさんには「ありがとう」と言いたいと思います。若い頃は、本当にかみさんに苦労かけてきたなと思いますし、40過ぎてからは、様々な病気で手術や入院の連続で心配ばかりかけてきました。私がかみさんのためにしてやってきたことはほとんどありません。強いて言えば、自分が料理が好きだから、時たま料理をしてやったり、お菓子を作って一緒に食べることぐらいです。そして時に、旅行しているぐらいかなと思いますがこれも自分がしたいからで、かみさんにしてあげていることでもないのです。

 ものはあげてはいませんが、かみさんが悲しいときは私も悲しいし、苦しいときは私も苦しいと感じますし、
 かみさんが喜ぶことは私の喜びですし、私の喜びは、かみさんの喜びです。かみさんの笑顔、笑い声が私の一番の栄養剤なのです。そう感じていることが、一番のプレゼントかなと思います。
 以前職場で、今度生まれ変わったら、今のかみさんと一緒になるかという話題になったとき、私は「なるよ。」と答え、みんなから冷やかされたことがあります。(かみさんは、嫌かもしれませんが・・・)

 「愛妻の日」と言われ、かみさんに深く感謝し、老いらくの愛を感じ直したよたろうです。
 


 
2013. 01. 29  
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 昨日は、学力テスト至上主義について述べましたが、一介の教師がどんなに声高に叫んでも制度や風潮は簡単に変わりません。ではどうするか。そのまま流されるか。逆らって干されるか。どちらも否です。現状を如何に十分のものとして取り入れ自分のやりたいことを取り入れるかなのです。反対の意志表現や改善要求行動は大人の世界でやればいいのです。

 以前、生活科が導入されたときに、一時お芋パーティやら何か分からない授業が流行したことがありま。私は、理科、社会を無くして生活科導入には納得していませんでした。そこで生活科の設立趣旨に添いながらも、理科、社会の基礎をどう取り入れていくかの授業をやっていました。
 又、総合的学習の導入に関しても、その趣旨は子ども中心の授業でしたのでやることが減らされた教科を、子ども達の自主研究にして補充していました。校長時代には、いずれ英語教育が必修科されると考え外部講師を招いて1時間は英語の時間にしました。学校で1時間の授業を無駄にしたくなかったからです。


 様々な制度が変更されることはよくありますが、ただ反対してやらなければ、その被害は子どもが受けるのです。学力問題についても大人の論議は様々ありますが、その制度の中で子ども達はやって行かざるを得ないのです。私はよく、「学力が狭い学力、広い学力がどうのこうのもありますが、子ども達は入試という制度を通り抜けなければならないのです。まさに狭い学力が必要になるのです。それを乗り越える力はしっかりつけてやるべきだし、また、人としての生き方、心の教育もしっかりやっていきます。」と、最初の懇談会で宣言していました。宣言することで自分を追い込んで、学年のスタートをよく切っていました。
 最初の懇談会で、自分の育てたい子ども像やクラス像を語らない教師は、私はダメだと思っています。人は誰しも楽な方向に流れます。それを、宣言することで自分を律することができるのです。


  今度の学力テストの結果で教育条件がかえられるのなら、私なら、自分のスタイルを迎合させるのでなく、狭い学力ではありますが、学力テストの点数を上げる工夫をします。たとへば、普段のテストも、学力テストと同様な形式にすることも一つです。テスト問題の形式は子どもの思考力を変えます。小学校では、多くの学校が、市販のテストを採用していることが多いと思います。多くが国語では10問程度、算数では多くて20問テストです。学力テストではそんなに少なくないはずです。きちんと自分のねらいを持った学習をしながらテスト問題の形式を変えるだけで必ず点数は上がるはずです。そのためには、先生の手作りの問題になり又仕事が増えてと言われそうですが、私はテストは教師の手作りが基本だと思って、多くは手作りしました。そうすることによって、その単元で教えるべきことなどがはっきり自覚できました。

 馴れさせることと言えば、思い出しますことは、6年生になると、中学校をにらみ、問題文も「~しましょう」から「~せよ」と書き換えたり問題数を増やしたり、問題用紙と、解答用紙を作って中学校以降のテストに馴れさせるようにしていました。ちょっとしたことで、小学校、中学校の段差を感じさせなくてすむと思ったからです。
 学テの結果で教育条件が変えられるのなら、その制度には大人として反対しても、その影響を受ける今の子ども達が不利にならないようにしてやることも必要だと思っています。

 


2013. 01. 28  
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 勝利至上主義は暴力をもたらし、学力テスト至上主義は子どもの個性を破壊する恐れがあると思っています。勝てば官軍、勝つためには少々の暴力も可としてきた日本の部活動。尊い命を代償に今はその伝統的風潮の変更が進められようとしています。この際、学校における部活動のあり方を根本的に見直す必要があると思います。

 学力問題の方は、ますます学力テスト至上主義に向かいかけています。ある校長と話していましたら、大阪でも、学力テストの点数に応じた予算配分がなされる方向のようです。市長の大好きな暴走老人の所では実施され、様々な問題を引き起こしているのです。学力は、親の経済状況で今は大きく差がついてきています。地域の状況でずいぶん違います。厳しいところは、さらに厳しくなり学校が立ちゆかなくなってきます。格差を拡大するだけです。

 学力問題を指摘するのなら如何にしたら学力が向上するか、指導法の研究等をしっかり保障することです。府の教育委員長の蔭山氏はもう何十年も前に、岸本裕史氏が提唱した「百マス」計算なるものをあたかも氏の発案かのごとくマスコミに乗せ、脚光を浴び現在の地位にありますが、かって私も百マス計算をやらせたこともありますが、さほど効果はありませんし、時間の浪費が大きくて止めたことがあります。「百マス」計算の弊害は、向山洋一氏の「向山型算数教え方教室1月号臨時増刊「徹底検証“百マス計算”はできない子を救えるか」に詳しいので、やっている先生、やろうと思っている先生、是非参考にしていただきたいと思います。

 学力をあげるためには、少人数指導、教師の力量向上が必要です。今、ほとんどの学校は到達度別編成の少人数学習を再任用教師等の力を借りて実施しているところが多いと思います。教育の成果は今日やったから、すぐに明日結果が出るものではありません。他の教科にしても、少人数指導を可能にする学級定数の削減にも努力すべきです。学テの点の低さ=教師の怠慢と決めつけるのでなく、指導の実が上がる体制を組む教育改革が必要です。

 そして、教師の指導力向上の近道は、研究していこう制度の復活です。私の若い頃には、文部省指定、府教委指定、市教委指定等の研究指定校制度が普通にありましたが、いつの間にかなくなっています。研究していこうになりますと教師は必死で勉強し、実践せざるを得なくなります。教育委員会の指導支援と財政的支援が必要なのですが、費用節減のためかなくなってきたのは残念です。研究指定校制度の復活を強く望みます。私は現役の頃二度、4年間の指定校研究で自分の力をつけることができたと思っています。 

 大阪では、学力テストの結果を学校別に公表すると橋下流の真似しの市長が話題になりましたが、そうして何のメリットがあるのでしょう。話題づくり、目立ちたがりに過ぎないと思います。幸い、文部科学省、市教委は認めない方向らしいのでよかったです。首長が、教育にどんどん首をつっこみ政治に左右される教育の復活が心配です。


2013. 01. 27  
 一昨日、元同僚のA先生からB先生の訃報を知らされました。A先生とB先生とは私が40歳の時はじめて転勤した学校で、1年生を担任したときの同僚です。お葬式は家族葬出やられたそうなので、今日、12人でお家に伺いしお線香をあげさせてもらいに行きました。享年60才です。
 私がB先生とはじめてお会いしたときは32歳のダイビング好きの元気なお嬢さんという感じの先生でした。当時は6学級あり学年の先生達の仲がよく、教材研究したり、子どもの話に花を咲かせたり、時には学年での会食、旅行などもしておりました。年齢がいっての転勤でしたのでとても緊張して赴任したものですが、A先生やB先生のようなよい先生との巡り会いで楽しく仕事ができました。一番若いB先生が雰囲気を盛り上げてくれていました。
とても明るい、子ども思いの先生だった記憶があります。
 その後何校か転勤され、病気のため若年退職後、嘱託として勤められていたようでした。亡くなられるまでぎりぎりまで勤められていたようで、つらさ痛みもあまり口にされなかったとご主人から聞きました。お二人には、お子さんもいなくて大きなお家に今はご主人だけで過ごされているようです。
 ご主人の話では、B先生は自分の死期を悟っておられたようで、最後に入院される前に、自分の遺影写真を撮って床の間の所に置いてあったそうです。若いときしか記憶にない私ですが、写真を見てとても懐かしく思いました。
 知り合いのお方の訃報を聞く度に、寂しくなります。特に、自分より年下の方の死は、悲しみが増します。人の氏に接したとき思うことは、どんな死に方を考えるより、どんな生き方をしていけばいいのかを考えてしまいます。
 昨日1日はパソコンも開かず、ブログ訪問もせず、日を過ごしました。訪問いただいた皆様には訪問返しもできずすみませんでした。


2013. 01. 25  
 教師の体罰が改めて問われてきています。この数年教育の昔帰りの傾向の中で、体罰もやむを得ないという方向に向いていたような気がします。ここに来て急転直下、体罰は指導ではないと否定されるようになってきました。
 思い起こせば、私の受けた体罰は記憶にあるのは、小学校の音楽の先生から頭を板塀に何度もぶつけられたこと、中学の書道の先生に往復びんたをされたこと、暴力的なことはこの二つぐらいです。小学校6年生の時精神的なことで言えば、500人の前で、跳び箱でできない見本をさせられたことぐらいと意外と少ないです。よく立たされたり、廊下に出されたりはしましたが叩かれることはあまりなかった気がしています。
 私の受けた体罰で今でも、一番恨みに思っていることは、さらし者にされた跳び箱でした。子どもをさらし者にしては絶対にいけません。暴力よりも時にはきつい罰になります。暴力と言葉、場面が結びつくととてつもなく心を傷つけます。言葉の暴力もあることを忘れてはいけません。教師の言葉は、子どもにとって大きな影響があると言うことを忘れず、感情的な言葉で罵倒しないように留意すべきです。叱る時や場面も大事です。
 私は、現職の教師の時に、やったなと思う体罰は記憶では2回ぐらいです。教室に入らず遊び回る子どもを引きずって教室に投げ込んだこと、廊下でボール投げをしてガラスを割った子を正座させて膝を蹴って自分の足の小指を捻挫したことぐらいです。顔をビンタするなんてとてもできませんでした。ビンタは何だか人格を否定しているような気がするからです。自分もどこを叩かれるよりもビンタが一番こたえます。自分がされて一番嫌なことはしないが、して貰って嬉しかったことはするが私の教師としての基本でした。
 虐待の連鎖と言われますが体罰の連鎖もあるような気がします。これまでにも何度も言ってきましたが、「体罰は、教師の力量のなさの現れである」と認識して、より望ましい指導のあり方を研究、実践して欲しいと思います。


2013. 01. 24  
『15年前に、先生方に呼びかけたこと』

 今年も一年が始まりました。今年こそは穏やかな幕開けかと思いましたがそうでもなかったようです。新聞の紙面は、景気の先行き不安、通り魔事件と気が重くなる記事ばかりで、新聞を読むのが嫌になります。もう少し明るく元気がでる記事も書いてくれないものかと思います。              
 ところで、1月になると忘れられないことは、阪神淡路大震災のことです。神戸の大地が激しく揺れ、多くの尊い命が奪われ、美しい町並みが一瞬のうちに瓦礫(がれき)と化したのは、3年前の1月17日未明のことでした。この3年間、神戸の人々は「がんばろうや、神戸」を合い言葉に、焦土と瓦礫の中から立ち上がったのです。

 先日、震災後初めて神戸の町を訪れましたがその見事なまでの復興ぶりには感嘆の念を禁じえませんでした。表向きには、以前にもまして活気に満ちあふれているような気がしました。まだ、多くの課題を残してはいるとはいえ、僅か期間にこれほどまで復興するとはだれが予想しえたでしょうか。神戸の人たちのエネルギーと人間の逞しさを感じずにはおれませんでした。    
 
 思えば、震災の時、私は病院のベットの中におり、テレビで震災の報道を見ていましました。終日報道される内容は、なぜか、悲惨な状況の中で繰り広げられた人々の勇気と優しさを讃えるものが多かったように思います。のべ、1千万人にも及ぶボランティアの人々の働き、現地の学校の先生方の献身的な活動そこには、現代社会で希薄になっているコミュニュケーションの輪の広がりがあり、人間の温かさを感じさせられたものでした。厳しい状況の中にあっても、希望を失わず前向きに生きようとしている人々、そして、そんな人々を掛け値なしで支えようとしている人々の姿は、病気で弱っている私の気持ちを奮い立たせるには十分なものでした。
 
 人は、逆境に立たされた時こそ、後を振り返らず、明るく前を向いて行くことが大切なんだと教えられたような気がします。人間は、環境の動物ともいわれます。困難なことにぶつかるとどうしても暗くなりがちです。周りが暗い雰囲気であればどうしても暗くなり、必要以上に不安感が増し、落ち込みがちになります。逆に、明るい環境にあると何となく希望に満ち、意欲が沸いてきます。
 今、学校教育はまさにM6なみの激震に揺れています。課題が山積し、先行きが不透明な状況にあります。校内暴力の増加、いじめ不登校、学級崩壊等どちらかといえば、暗い話題がクローズアップされています。こんな時ですからこそ、悪い面、暗い面ばかりに目を向けず、良い面、明るい面にも目を向けることが必要です。職員室の会話も、元気がでる明るい話題でいっぱいになる様にしたいものです。そのためには、時には、視点をかえて考えてみることが必要です。沢庵和尚は「心を一所に置けば、偏に落つる」と戒めています。心が偏った状態にありますと、本来なら聞こえるはずのものが聞こえなくなるし、見えるはずのものが見えなくなるというのです。マイナスの面ばかりを見ているとプラスの面が見えなくなり、悪循環を引き起こしかねません。    
 
 また、教育を教育学的視点からばかりで見ていると行き詰まってしまいます。時には、他職の人々の意見や考えに接することで、解決のヒントを得ることができます。教育に関するものばかりを読むのでなく、時には、芥川賞や直木賞等の文学的なものやエッセイ等にも接するような心のゆとりも必要ではないかと思うのです。      
 人生はマラソンに例えられますが、教育も又マラソンと同じではないかと思うのです。坂道もあれば、平凡で単調な道もあります。心地よく走ることができる時もあれば、もう走るのをやめようかと思う時もあります。42.195㎞の長丁場を乗り切るには、自分なりのペ-ス配分が大切です。そして、適度な給水が必要なのです。もう随分前のことですが、出場した大会でほとんど途中リタイアすることがなかった名ランナー君原健二氏が、マラソンで途中棄権をしたいと思ったことはないかと問われ「もうやめようと思った時、次の曲がり角まで走ってみよう。その曲がり角をこえたら、また次の曲がり角まで走ってみようとやっているうちにゴ-ルが見えてくるのです。」と語っていたことが今でも心に残っています。 
 焦らず、怠けず着実に一歩一歩を刻んでいく一年にしたいものです。「一人の百歩より、百人の一歩」とよく言われますが「がんばろうや、せんせい」を合い言葉に今年も共に歩みたいと願っています。                           一九九八・一月


2013. 01. 23  
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 このところ、心が晴れないことばかりアップして疲れています。今日は、我が家にとって明るいニュースを報告します。それは先日、次女の婚約が成立したことを書きましたが、式の日取りが決定しました。6月1日(土)と決まりました。式は仏式です。場所は、東京のお寺です。披露宴はホテルでやることになったようです。式場は向こうのお母さんのお力で決める事が出来たようで、披露宴の方は娘ががんばったのじゃないかと思います。結婚すると決めてから、トントン拍子に決まっていって嬉しい限りです。あらかたの段取りが決まってからですので来月の顔合わせの会は少し気が楽です。
 籍を先に入れておくようで、今日、戸籍謄本を取りに役所に行ってきました。今は三人なので2枚にわたって名前がありますが、もうすぐ、かみさんと2人で一枚に収まってしまうのかと思うとちょっと寂しい気がします。謄本を見ながら、かみさんと2人とも出生地:満州国というのを見て、お互いの歳を実感させられました。
 とにかくあと半年足らず、健康に気をつけて、元気な身体で式が迎えられるように気をつけて過ごそうと思います。
 
2013. 01. 22  
 今回の桜宮高校の問題は、子ども、主役ではなくやっぱり、橋下市長主役の劇場のような気がしています。最初の第一歩は示されましたが、これからが幕が開くわけでその成り行きを注視していく必要があります。とにかく、話題づくり、自己アピールの天才だと思いました。しばらくは、この天才のことは、話題にしたくないのでここらで私のブログではこの話題についてはいったん幕とします。自死した子の死を無駄にしない本当の教育改革が行われることを祈りつつ。

2013. 01. 21  
 大阪市立桜宮高校の体育系の入学試験実施について、教育委員会の出した答えは、体育系としては募集しないがその分普通科として募集し、受験科目等については体育科の者とするというものでした。まあ、見事な玉虫色の結論で市長の顔も、受験者等の立場も何とか立つと言うものでした。市長も絶賛しています。委員会事務局の苦心が目に見えます。事務局員はこの何日間は提案づくりに徹夜作業の連続だったに違いないと思います。一方で、この知恵と努力を問題が起こる以前に注いでいたらと残念に思います。

 これで一件落着ではないことは十分に分かっているとは思いますが、今日に至った原因をしっかり追求し、責任の所在を明らかにし、処分すべきは処分することが必要です。
 そもそも、日本の体育系クラブに伝統的に残っている体罰容認を如何に払拭し、学校教育の場での勝利絶対主義の考えを改めることです。そして、学校の体質改善と共に、市の体制の強化を図るべきです。それは、大阪市の公益通報制度の実質的活用がはかれるように人員を含めて充実させることです。体罰の通報があったにも関わらず、単なるお役所仕事にしていまい、折角の制度を十分に機能させえなかったことも大きな原因の一つです。よく似た事例は、児童虐待通報制度と児童相談所等の人材不足、権限不足です。仏作って魂入れずの状態を脱却させる必要があります。そこはまさに市長の働く場所です。
 そして今進められている、府立移管を早急に進めることです。そうすれば人事交流の幅が広がり、学校改革が進められると思います。

 桜宮高校問題が提起していることを、全国の学校が、自分たちの問題として受け止め自分たちの学校に生かしてこそ、自死した子の死を無駄にしないことだと思います。


2013. 01. 20  
リンクさせていただいています kanmoさんのブログ「素顔のままで」の記事の中の一節に

「ブログ記事の内容。嫌われるベストなんとか?

・ 政治や宗教を主張している。
・ 上から目線で書かれている。
・ 自分のブログが1番と思い込んで書いている。
・ 自慢話や意味のない独りよがり。
・ ネガティブな文章。
・ 他人のプライバシーを批判・侵害している。
 (コメントする際、匿名とかHNを変えるなど)
・ ほか・・・・・・・・」
と書かれておられるのを見て、なるほどと思いました。

 特に、一番最初の
・政治や宗教を主張している
と言う言葉に引っかかりました。

ブログって何なんだろうと考えてしまいました。
自分の思いを誰かに聞いて貰いたい、ボケ防止で頭を働かせたいぐらいの思いで始めたブログです。あまり政治的な話をする気もなかったのですが、結構そんな話が多いのに気づきました。決して、自分の考えを押しつけようと思って書いたものはないのですが、読み方によっては、押しつけようとしていると受け取られているのかなと不安にもなります。
 政治的な話を書くときはとても疲れます。誤解されないように色々と言葉を選んで書くようにしています。政治の話で心温まる話はありませんし、誰もが私と同じ考えを持っているわけでもないし、政治の話を書くことは自己満足に過ぎないのかなと思います。これから、もっと読んでいただく方の心に響く内容を考えたいと思います。勿論、全くなしというわけにはいかないと思いますが、できるだけ政治で腹が立ったら、ツイッターでつぶやきます。
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プロフィール

よたろう

Author:よたろう
経歴:
元自動車セールスマン、
元 教師、
元 教育委員会指導主事、
元 校長、
現在:フリーター
子 2人 ,2人とも結婚  
孫 3人
 経歴だけ見たら、すごく真面目で、堅物のようですが、いたって普通のジジです。ボケ防止のためにもブログを開設しました。多くの方々と交流できたらと思っています。
子育て、教育、政治、よもやま話しませんか。

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