2012. 07. 30  
image_20120730081008.jpg
 私は、自分ではスポーツはしませんが観るのは好きです。オリンピックもどの競技も観ます。中でも、柔道はよく観ます。しかし、今年の柔道はあまり観たくなくなりました。最近の柔道は、組み手争いばかりしていて組み合うこともなく、バタバタしてちょっとした隙をついて勝つといったものか、相手の技を力で切り返して勝つかのどれかです。それにやられるのはいつも日本人選手です。日本人だけの大会では結構組んで投げたりと面白いのですが、国際大会になると、まるで子供のけんかみたいな組み手争いばかりでイライラさせられます。日本人選手に組まれると不利だと分かっているから外国人選手の戦略だろうと思います。そんな外国人対策がいつまで経っても出来ない日本柔道にもうそろそろ飽きたというのが本音です。今の柔道界に、かっての山下選手や古賀選手のように安心してみられる選手がいなくなったのも楽しみが減った原因でもあります。
1分以上組まなかったら、組んで試合するようにするように勧告するとかして、組む柔道が観たいです。
 どうせ組ませないのなら組まなくても何とかする工夫をして欲しいし、組んだら攻めを早くするなどの工夫が全くなくては、相手の思うつぼです。国際大会できれいな柔道を求めていたら勝てません。もう今日から、柔道に限らず生の実況生中継は観ないことにしました。イライラして体に悪いので・・・。結果はよかったらテロップで流れますし、スポーツニュースを見ればよいことだと思うようになりました。
2012. 07. 29  
TORCH 24

 オリンピックが始まりました。この頃は、オリンピックを見るのが少しつらいです。なぜなら、メダルが取れず涙する選手、自分の力を発揮できずうなだれて去る選手の姿を目にすると、心が痛みます。ここに至るまでに、どれだけの努力をし、どれだけ多くの人々が支えてくれていたかと思うと本当につらくなります。メダルを取る人よりもその何倍もの選手が悔し涙を流して去っていくのもオリンピックです。。

 オリンピックのメダルというと、思い出しますのは、中山竹通さんのことです。かって、教育委員会に勤めているとき、マラソンの中山竹通さんと2人でお話する機会がありました。中山竹通さんと言えば、1988年のソウルオリンピック、1992年のバルセロナオリンピックに日本代表で出場された名選手でした。ソウルオリンピックの時は当時の記録も持ち、金メダル最有力候補でした。本人もその自信を持って大会に臨みました。最終まで4人の先頭集団で争ったのですが、結果は、残念ながらメダルに届かず、4位でした。多くの記者団に囲まれ悔しさをあらわにした中山さんの口から出た言葉は「一位でなければビリでも同じだよ」という言葉でした。
 悔しさをバネに、次のバルセロナのオリンピックにのぞみましたが、ここでも、トラックに戻ってきたのは3位でしたが最後の最後に抜かれまたもや4位でした。
 この時の心境などを色々話してくださりとても興味深いものでした。「一位でなければビリでも同じだよ」悔しさのタメに発言し、現実のそう思っていたそうです。たが、そうじゃないと言うことをその帰り道に体験したそうです。いかに、メダルの重さがあるのかという事を実感したのです。
 
 
 それは、日本に帰る飛行機の席順から差がつけられ、日本に到着したら、まずメダリストから降りていき、そうでない人は、待たされ、メダリストが全て降り立ち、出口に記者団がいなくなったところで目立たないようにひっそりと降りていくそうです。
 その後の生活も、メダリストと、そうでない者の差は、講演会等への要請回数と講演料に雲泥の差が出てくるのです。中山さんは、「一位でなければビリでも同じ」はやっぱり違ったよ。とにかくメダリストになることがまず大事だよと笑ってお話いただいたときのお顔を今でも覚えています。(尚、2大会連続入賞者者は、この中山竹通さんと君原健二さんの2人だけなのです。)


 今年もまた、同じ話が、華やかな舞台裏で繰り広げられtりるのかと思うと、テレビを見るのがつらくなります。300人以上この大会に参加し約1割がメダルを獲得すると思いますが、獲得できないかもしれない9割の選手達にも心から声援を送っていきたいと思うのです。


 
2012. 07. 28  
無題

 母の手記は、ここでいったんきれています。次は、父の介護戦争の手記が残されていました。またいつかご紹介できればと思います。

 父は、高知へ行ったのち、熊本に帰ってきたようでした。しばらくは母の実家の屋根裏部屋6畳ぐらいの部屋に住まわせて貰い、近くの方の仕事の手伝いなどしていましたが、それではらちがあかず、遅疑は炭坑に出稼ぎに行っていました。このころから、私の記憶にもあります。
年に何回かの休みに帰ってくるのを迎えに行っていた記憶があります。サトウキビ畑の続く道の向こうから父の姿を見つけ走っていったように思います。
この炭坑も閉山となりまた、失業して戻ってきた父は、今度は当時好調だった造船業に就くため、一家5人(妹が生まれていました)下関に移ったのです。
 父は仕事運が無く、造船業も傾きまた職を失うのです。ちょうど私が小学校3年生に頃でした。このころの思いでは、父と共に後ろの山や前の海に、いろんな物を取りに行っていて記憶です。山のはツワブキ、ゼンマイ、イタドリ、タラの芽などの山菜を海にアサリ、蛤、わかめ、岩のりなどをとってきては父の料理で、夕食のおかずになっていました。


 父とのこのころの思い出は強く残っていますが、実はそれも職がないためのやむを得ない父の行動だったのです。収入の当てもなく、父と母は、一家心中を考えたという事をのちに聞かされたことがありました。その話を聞いた時、思い出した事は、その日、なぜかご馳走を作って、美味しいお菓子を買って貰って海に連れて行って貰ったことです。私たちの喜んで遊ぶ姿に、父と母は思い直し、心中を思い直したとのことでした。
 それから、母は、焼き芋の釜一つからお店を始めました。父は、近くの高校の先生のお世話で銀行の警備員の定職につくことが出来たのです。


 世の中、みんな貧しい時代でしたので、どの子も家計の助けをしていました。よくやったのは、くず鉄拾いでした。磁石をぶら下げて海辺をよく歩いたものでした。お店をやると言うことは、年中休めないと言うことでもありした。正月1日だけの休みには、一家で映画を見て、おうどん屋さんでうどんを食べて変えるのがとても楽しみでした。
 店の方も、母の人当たりの良さから徐々に品数も増え、固定客もつき、村一番の雑貨屋さんにまで成長しました。兄が、その店を継ぎ、父母を見るというので新築にして兄たちと暮らしはじめましたが、途中からの同居はやはり難しく、嫁姑の関係も悪化し同居は破綻し、父母が出て行ってしまいました。その後、父は脳梗塞で倒れ半身麻痺し、亡くなるよう死を感じたのか母に「ありがとう。」と言ったそうです。そして不安だったのか、その夜、母に手を握って側にいてくれと頼んだそうです。母は、父とををひもで結びその夜を過ごしたそうです。そして明け方息を引き取ったとのことでした。父の死の1年後兄も親と妻との板挟みからか51才の若さでガンでなくなりました。店があったおかげで義姉は生活が出来ました。母は子供達には迷惑かけないと有料老人ホームに入り、その後今回の病院でその生涯を閉じました。葬式で、母の作った店があったからこそ生活が出来た義姉の涙一つ見せない姿に、母の無念さを感じました

 自立することが一番の親孝行と、大学も奨学金 、結婚、出産(助産婦制度利用)なども一切親に負担をかけずやってきました。本当は、母は私と暮らしたかったのではと思い、何もしてやれなかった悔いは残っています。
 まさに、昭和という時代を強くたくましく駆け抜けた父と母の冥福を強く祈ってやみません。
  

最後に、長々と追悼の文をお読みいただいた皆様に感謝申し上げます。

今日からロンドンオリンピック。楽しい話題を期待しています。でも、早速福見選手が敗れてガッカリです


2012. 07. 27  
ハイビスカス

 父の様子を記しておきたいと思いましたので、やや話が前後しました。又、母の手記の戻ります。

(三) お父さんが還ってきた

 熊本に帰って、とにかく一人でやっていかねばならないと思って、配給の手続きなどをし、働き場所をさがしました。幸い、近くで、上海から持って帰ってきたヤミ物資を売っているところがあり、兄の勧めで、そこで働くことが出来ました。兄が持ってきた子供服を持って、次郎をおんぶして朝早くから、農家に売りにまわりました。初めての日は、思ったより早くお米に変えることが出来ました。そのお米を持って、やみ屋さんに行きお金にかえ、元金を払い儲けた金は僅かでしたが、自分で働いて得たお金だと思うと嬉しくてたまりませんでした。
 それから毎日、次郎をおんぶし、太郎をおばあちゃんにあずけ、色々な品物を持って出掛けました。足が棒になるほど歩きました。くつも、引き揚げてきたときのもので、ボロボロになり、底がパタパタと音がするので、心棒を紐で縛ってはきました。靴も買いたいと思いましたが、自分の物より子どもの物を買ってやりたいと思いました。仕事の方は、私のあまりにもみすぼらしい姿を憐れんでか何を持っていってもすぐに売れてしまいました。
 

 やがて、正月が来て、ようやくお餅も一臼つくことができました。家のなかでは、子ども同志の喧嘩、義姉さんの皮肉。本当に夜、布団の中で泣くことの多い毎日でしたが、子どもたちも元気を取り戻し、あとは、主人の帰りをまつばかりでした。義姉さんは、
「もう帰っては、こないかもしれない。あっちの人は、皆殺されたらしい。」と私の不安を増幅さすことをよく口にしました。私は、そうなればそうなったで頑張ればいいと思うようになっていました。
 あれほど、私達を嫌がっていた義姉さんも、徐々にやさしくなり、米の買い出しなどにも一緒にいくようになりました。ある日、次郎をおんぶして、リヤカ―で五里も離れた村に買い出しにいってヤミ米をつんで帰っていると捕まってしまいました。ヤミ屋がいけないことと分かっていてもそれしか生きる道がないので、その後も色々なものを持って出掛けました。
 
 
 引き揚げてきて二度目の夏が来ました。八月十二日に私は、丁度仕事を休んでおりました。部屋の奥で、近くにすむ兄と話していると、玄関にリュックを背負った人が立っておりました。誰だろうと思っていると、
「西山さんの家ですね。」
と言う声が聞こえました。どこか聞き覚えのある声です。待ちに待っていた人の声です。主人が帰ってきたのです。私は、ただ茫然としてしばらくは身動きできませんでした。
「お父さん、よく帰ってきたわね。お帰り!」
それだけ言うと後は言葉にならず、ただ涙がこぼれるばかりでした。
2012. 07. 26  
三) さようなら満州

 午前三時に起きる。二、三日続いた熱のため体は依然だるい。待ちに待った内地。妻子のいる内地に帰るのだ。だが、もし妻子が内地に帰っていないとき
は・・・ 、そんな不安にもかられる。
 夜明けと共にはやる気持ちで、検査場に向かう。検査を待つ時間の長き事。検査を終え、汽車に乗り込む。乗車間もなく発車。
 四平の街よ、思い出多き四平の街よ、永久に永久にさようなら。二度と訪れることもないだろう。
 思い出を多く残して故郷へ。四平の街は涙に霞む。
 途中、幸い雨にも合わず事故もなく奉天に着く。しかし、ここで暫し停車。西に行くのか、東に行くのか。すべては、中国の官憲任せ。話によれば北奉天に向け出発するらしい。   
 汽車は真夏の平原を、果てしなき満州の野を南へ南へ走る。数々の思いを乗せて。十年の思い出、見るもの聞くもの総てがもう最後かと思えば感慨無量。 七月の太陽は容赦なく無蓋車を照りつける。人々は暑さに喘いでいる。それでも、故国日本に帰れる喜びに輝いている。
 列車は錦州の収容所を通過、コロ島に向け直通との話。直通することを祈る。朝三時、錦州駅に着く。収容所か、直通か?
 直通は矢張りデマ。結局、収容所入り。十日位いるらしい。皆の顔に失望の色。かくて収容所の不自由な生活が続く。なつかしの故国の土。一刻も忘れざる妻子の安否。無事に帰りてあれ。祈るはそれのみ。いかに苦しくとも悲しくとも内地に帰るのだ。故郷に帰るのだ。それのみに希望を抱き、歯をくいしばって我慢に我慢の収容所生活が続く。
 コロ島に向け出発の日が近づき、なごりの演芸会が催されるとの由。収容所はその話でもちきり。一週間が過ぎ、いよいよコロ島に向けて出発す。午前二時、収容所出発。まだ明けきらぬ平野を汽車が走る。コロ島に向けて。
 コロ島にコレラ発生し収容所には入らず直接船に乗ることになる。乗船までに一苦労。荷物の検査、DDTの散布など。やがて、乗船。海はあくまでも青く磯の香、鼻をつく。この海が、日本に続いているのだ。妻子のいる故郷に。胸は高なる。船が出る。    
 満州の地よさようなら、思い出の地よさようなら。
 


(四)波路はるか

 七月十九日
 船足のなんとのろきことか。心は、遠く故郷へ、波路はるかの妻子のもとへ夕べになりて霧深く警笛盛んに鳴れども波静かなり。
 七月二十日
 今日も海静かに明ける。見渡すかぎり青き海原。上陸は舞鶴と聞く。母国が近づくにつれ、胸は高なる。唯一つの不安は妻子の安否。つつがなく帰りてあらんことを祈る。今宵もまた霧深く警笛なりやまず。
 七月二十二日
 寄せては返し、砕けては返る青き波。波の間に間に妻子の顔が浮かぶ。元気で、朗らかな顔。何か書かんとするもまとまらず、甲板に出て、波を眺めて佇む。霧深き夜、船は進む。妻子の国へ。待てしばし、父は今帰るなり。待て、妻よ子よ。呼呼この一年の長かったことよ。
 日は、今日も沈めり。水平線の彼方に。
 七月二十三日
 今日も一日青い海原、果てしない海原。寄せ来る波を見つめ上陸第一歩の時を想う。夕べ、静かな波の間に間にカニの無数に遊泳するを見る。静かなる航海なり。明日も晴天か、西の空は真紅だ。
 七月二十四日
 母国の山々が見える。懐かしの山々が見える。山に併行して船は進む。母国に着いたのだ。明日は舞鶴に入港。今日も夕日は真紅なり。
 七月二十五日
 予定通り午前十時に舞鶴港外に船は停泊する。対岸の山々、建ち並ぶ家々、夢のごとく眺める。上陸は何時の日か。検疫その他の手続きが簡単には済まないらしい。呼呼、一刻も早く上陸、上陸。
 七月二十六日
 船は港内に進み錨を下ろす。なかなか上陸できそうにもない。鉄板の上を太陽はカンカン照りつける。その暑いことは物凄いばかり。しかし、上陸を楽しみにジィ―と我慢する。船の中の一日の長いこと長いこと。
 七月二十七日
上陸。夢にまで見た祖国の大地。帰ってきたのだ。さあ、急ごう、愛しき妻や子の元へ。故郷、高知へ。


                      つづく
2012. 07. 25  
 母が、引き揚げてきて、住む場所を求めて右往左往しているとき、父は、八路軍(毛沢東 中国共産党軍)の捕虜となっていました。日本との戦争終結後、中国では毛沢東と蒋介石との争いが始まり共産党軍の捕虜は軍役に駆り出されたようでした。当時の資料に寄りますと、蒋介石は、日本人の軍人、民間人にかかわらず帰国を認める方針だと記録されています。父の捕虜収容所の地も、国民党軍(蒋介石)と共産軍(毛沢東)との争いが激しかったようです。父の日記をここで紹介します。

第二章  父の逃避行


 (一) 一人 異境の地に

 昭和二十一年五月。
 四平の街の街路樹は緑の芽をふき、大陸にも春は訪れんとす。長き冬より解放され人々は嬉しく、朗らかな筈なのだが、在留敗戦日本人の人々の顔は女も男も子供も年寄りも、どの顔も憂欝で不安な表情をしていた。
 八路軍の統治下、街の周囲は正規中央軍の包囲下にあり、朝な夕なその砲撃に人々は生きた心地なく、一刻も早く八路軍の退却を念願し中央軍の軍政下におかれんことを日夜祈った。政治性のない八路軍の為に男と名のつく者は、非戦闘員の区別なく総て陣地構築のために第一線にかりだされた。男達は、砲弾の炸裂する真っただ中に壕やト―チカの構築に全く生きた空はなかった。非戦闘員である市民、特に日本人に対しては、徹底的に苛酷且つ無茶だった。当然の結果として、犠牲者が相次いで出た。しかし、無謀な八路軍に対しては、抗する術もなく、憤慨はしながらも何等の方途も構ぜられなかった。中央軍の攻撃は、日増しに熾烈を極め街は死の如く暗黒化した。
 人々の苦しみをよそに春は訪れ、街は、緑に輝いていた。日本人の願いは一日も早く中央軍が入城し、引き揚げが開始されることだった。
 第一線の壕の中で、砲弾を聞きつつ何時倒れるか分からない我が身でありながら、十ケ月前に別れ別れになった妻、二人の子供の事を無事で暮らしていてくれと手を合わせて祈りつつ自分の現在の境遇を思い涙を流す。一刻も脳裏を離れなかったのは妻子のことだった。赤い夕日に妻子の笑顔を描き、今ごろ何処でどうしているやら、父はここで健在なりと大声で一人叫んだものだった。妻子のことを考えるときは、砲弾の音も危険なことも一切脳裏にはなかった。こんな所で、こんな姿で妻子と別れ別れになり、死にまさる苦しみをしようとは、神ならぬ我が身の知るよしもなかった。考えれば考えるほど、思えば思うほど狂おしくなるばかりだった。内地引き揚げは何時の日ぞ、妻子に会えるや否や、呼、呼。
 夕暮れ、中央軍の攻撃ひとしお猛烈なり。


二) 解 放

 四平の街は緑につつまれ、春の日は輝いていた。然し、八路軍の無謀なる占領のため街の中には人影もなくどの家もかたく扉を閉ざし、来る日も、来る日も暗黒の死の街だった。死に対する市民の恐怖心高まり、加えて食糧も欠乏し市民の生活もまた暗黒だった。唯一の願いは一日も早い中央軍の入城だった。 男に対する八路軍の強制的労働は相変わらず残酷を極め、戦闘の進捗するにつれ、日暮れより明け方まで総て夜間作業が実施された。この間、街の重要施設に対する中央軍の砲撃は容赦なく続き、人々はますます危険に曝された。
 五月十九日の夜間の攻撃は物凄いものだった。第一線に出されている同胞の安否が気遣われた。
 激戦の夜が明けた。不安顔で窓より顔を出す人々の目に映ったものは、市政府庁舎の屋上に朝風に翻る白旗だった。八路軍遂に敗れたり。八路軍遂に退却す。人々の顔は、歓喜に輝いた。戦いは終わった。八路軍、遂に屈したのだ。もう中央軍の入城を待つばかりだ。
 内地へ帰れるのだ。中央軍さへ来れば、必ず引き揚げは始まるのだ。中央軍の軍政下にある奉天ではもう引き揚げが開始されていると聞く。四平もそう遠くあるまい。人々の心に、顔に久々に笑顔が戻った。本当の春が訪れた。
 人々の顔に生気が蘇った。紳士的な中央軍の軍政に漸く安堵の胸をなでおろした。今日の日を如何に待ち焦がれたか。内地引き揚げの期日も大体判明した在留日本人は、その準備に忙殺された。噂は噂を生み引き揚げの日はまちまちであったが、実施されることは確かであった。中央軍の使役に出る日本人の顔も朗らかだった。
 妻子に会えるのだ。この日を如何なる思いで待っていたことか。何物もいらぬ。もっとも何も持たないのだが。身体一つ、内地に帰れさえすればいいのだ。



2012. 07. 24  
(二) やっかいもの

 たずねたずねて、やっとの思いで主人の実家に着きました。義父母もよく二人の子どもを連れて帰ってきたねと喜んでくれました。でも、終戦の世の中は、どこに行っても同じでした。食べる物もなく毎日おかゆで子どもたちも私もお腹がすき、肩身の狭い思いでした。やっぱり、熊本へ帰ろうと思っておりました。丁度そんな時に義兄さん夫婦が来られました。何かと食べる物をいっぱい持って来られました。そんな義兄さんたちに較べ、なにもなくただ、親子三人が転がり込んできて、本当にやっかいものでしかない私達でした。
 義兄さんたちのおかげで白いご飯を食べることが出来ました。義兄さんたちも新婚で、大変だったようです。
 幾日か過ぎたある日、太郎がおじいちゃんの部屋に一人で入って行き、火鉢をかきまぜたらしく、目の見えないおじいちゃんに大声で怒鳴りつけられていました。私は、何か太郎が悪さをしたのかと思ってとんでいきました。
義姉さんもきました。おじいちゃんは、義姉さんに、
「あっちに、追い出してくれ。このやっかいものを。」とがなりたてました。私は、「すみません。」といって、太郎を抱いて外に飛び出しました。
(やっぱり、ここにはおられない、また、義姉さんのいやな顔を見なければならないけれど、母がいる熊本に帰ろう。)と決心しました。高知での生活は、予想以上に厳しいものでした。みんな、やっかいものめと言わんばかりの態度でわたしたち親子にあたる中、主人の妹の八千代さんだけはやさしく、子どもももよく可愛がってくれました。本当にうれしく思いました。
    つづく

 2.26事件以降、参加した父は、国賊扱いされ親子、親戚のつながりが切れたようでした。母との結婚式も親族は誰も参加せず、満州で友人達の祝福を受けて式を挙げたようです。だから、母は、父の故郷に行ったことがなかったのです。


2012. 07. 23  
19日に無くなった母の遺稿となりました。満州から23才の若さで、2人の幼子を一人で連れて帰ったときの様子は、5月10日~5月15日の第一章にあります。お読みいただいていない方にはそちらも是非お読みいただければありがたいです。
どんな母だったか少しでもおわかりいただけたら嬉しいです。

第二章は、父の俘虜記です。いずれ機会がありましたら、紹介します。

第三章  ふるさと 

(一) 嫁にいったのだから

 長い長い旅でしたが、ようやく汽車はふるさと植木につきました。ギュウギュウづめでなかなか降りることができず、隣の人に、
「すみません。子どもを窓から降ろして下さい。」とたのんで、次郎をおんぶして、やっとの思いで降りました。窓にかけ寄り太郎を受け取り、政地さんに別れをつげました。                        のりかえのため、待合室に座っておりましたが、ぼろをまとい、すすけた顔のわたしたち親子を、なにか汚いものでも見るようにまわりの人たちがジロジロ見ておりました。わたしは、恥ずかしくて、ただ、子どもの顔ばかり見ていました。やがて、ふるさと行きの汽車が来てみんなの目を逃れるように乗り込みました。二時間も乗ったでしょうか、汽車はなつかしいふるさとの駅に着きました。駅は、日本を離れる時のままの佇まいでした。駅のまわりの家も山も以前のままで、戦争とは何にも関係なかったような感じで、不思議な気持ちと、ふるさとのにおいに思わず涙がこぼれました。
 二人を後前に抱き、実家のある良福寺に向かいました。あまりにも汚い格好だったので、表通りを通るのは気が引けました。幼い頃からよく知っている裏道を人目をしのんで歩きました。
 

 いよいよ、家が見えてきました。はやく、母に会いたいという気持ちと、義姉さんがどんなに思うかといった不安でいっぱいでした。入り口に立ち、おそるおそる「ごめん下さい。」と声をかけると、義姉さんが出てきて、「まあ!トキエさんかね。」と言って、じっと、しばらく顔を見合わせていました。そして、次に義姉さんの口から出た言葉は、「嫁に行ったのだから、ご主人さんの家に帰るのが本当でしょう。」と言う厳しいものでした。わたしは、情けない気持ちになりながらも負けずに、「まだ、行ったことがないので、こちらに先に来たのです。」と言って、「お母さんは?」と聞きました。「お寺に行っている。」とそっけない態度でした。「上がれ。」とも言われないので、わたしたち親子は、しかたなく、上がりかまちに腰掛けて母の帰ってくるのを待っておりました。                       
 
 三十分ぐらいして、母が帰ってきました。母は、わたしたちの姿を見るや、「まあ!よう帰ってきたね、。何してる、はよう上がって子どもを下ろしてや り。自分が生まれた家じゃないか。」と言って、手をとって上げてくれました。本当に、無事で何よりだった。」と泣いて喜んでくれました。わたしも、その時はじめて、帰ってきてよかったと思いました。義姉さんも、しかたないといったような顔をして、奥に行き、食物を持ってきてくれました。
 今、考えると全く食べる物が少ない時に、親子三人も転がり込んできて、どうして食べさせようと不安だったんだなと思います。「すみません、しばらくお世話になります。」と義姉さんに手をついて改めてあいさつしました。母は、「もう少し落ち着いたら、高知の方に言ってみたらいい。」と言って、奥の方に、私達の着るものを探しに行ってくれました。太郎は、疲れたのか毛布にくるまって眠ってしまいました。こんこんと眠り込んでいる姿を見て、母は、「だいじょうぶかね。」と心配そうに覗き込んで、「よう、こんな子を連れて帰ってきたね。」としみじみと言いました。本当にわたしは、何度、この子たちを置いて帰ろうと思ったか知れません。満州を出た時のことが、わたしの脳裏をかけめぐりました。今こうして、緑と川のやさしいせせらぎの中に親子三人がいることが奇跡とさえ思われるのでした。
 

 義姉さんが、汚いからお風呂に入り、着てきた着物は、お風呂に入れて煮るように言いました。母もそうしたほうがいいと言って、自分の着物を貸してくれました。夏だったので、本当に良かったと思いました。      
 落ち着いてみると、あっちこちがかゆくてたまらず、頭には、おできができしかも、陰毛にもしらみがわき、どうにもたまりませんでした。母に、病院に連れていってくれと頼み、太郎を連れて行きました。病院には、薬も少なく、わたしを診察した医者は、                     
「これは、困った。もうどうしょうも出来ませんな。」といいながら薬をくれました。それを塗るとしばらくしたら、かゆみはとれましたが、下の方は、赤くはれ、毛もなくなっていました。太郎の事が心配で、
「先生、どんなでしょうか。」と聞くと、
「日光が、不足しておるのだから、そのうちよくなるでしょう。」と言ってくれ少しホッとしました。母も、安心した顔を見せました。
 病院を出て、家に帰るまで、ピリピリするのをがまんして帰りました。帰りながら、どうして、こんな思いをしなくてはならないのかと自然と涙がこぼれて、戦争が憎く思われました。
 

 太郎は、何も食べず、一日半もこんこんと眠り続けました。どうぞ、元気になっておくれ、せっかく日本に帰って来たのだから、お父さんが還ってくるまではと祈る思いでした。
 二日目の三時ごろ、
 「母ちゃん、何か食べたい。」と言って起きてきました。母が、おかゆを作って持ってきてくれました。それを、おいしそうに食べました。その後、家の前の川で、裸で遊んだのが良かったのか、日に日に元気になってきた太郎の姿を見て本当に良かったと思いました。母は、私達のため、配給がもらえるように色々と世話してくれました。子どもたちも元気になり、落ち着いてくると、気になることは主人の安否でした。母に、とにかく高知に行ってみたらどうかと言われ、一度行ってみようかと思いました。支度は、何もかも母がしてくれました。二人の子どもを連れて出掛けました。義姉さんのヤレヤレといった顔に見送られ主人の故郷、高知へと向かいました

                 つづく


2012. 07. 22  
はじめに、母の死に対して、ご弔文、ご弔意頂きました皆様方に御礼申し上げます

 18日夜10時に危篤の方を受け、翌朝朝一番で帰る予定にして、眠れぬ夜を過ごしていましたところ19日午前1時に、息を引き取ったとの知らせが入り,翌朝、新幹線で下関に向かいました。葬儀場に着くと母は、まだ布団に寝かされてました。顔の白布を取り母の死に顔を見たとき、涙があふれてきました。母との思い出が、走馬燈のように脳裏を駆けめぐりました。
 母の90年間は、苦労の連続だったように思います。青春時代は戦争で、戦争中は私と、兄を守ることに命をかけ、戦後も生きるために、恥も外聞もなく、働き続けてくれた母。母の楽しみって一体なんっだったんだろうと考えたときさらに涙があふれてきました。時には愚痴もこぼしていましたが、父とはとても仲良く2人で生活を切り開いていく姿を私たちにいつも見せてくれていました。
 母が、雑貨屋を営むようになってからは、朝、早くに深さ40㎝ぐらいの1m四方の買い出しかごにいっぱいの荷物を入れ市内電車で帰ってくるのを父は家の前を通る電車を見ていて、母の姿を見ると駅まで200mありましたが迎えに行って2人で荷物を持って帰って、売り場に広げていました。その後、父は、自転車で銀行の警備の仕事に通っていました。父は、母が買い出しに行ってる間私たち子ども3人の朝食を食べさせて、私と、兄は、小学校3年から牛乳配達を高校卒業までやっていました。
 今でも、母の姿を見逃すまいとする父の姿と、見つけてお互いが手をふる姿を忘れることが出来ません。そんな父母でしたので、父の死後は大きく落胆し、いつも「早く、お父さんの所へいきたい。」が口癖のようでした。
母の死に顔を見たとき、母にかけた言葉は、
「もう、苦労しなくていいよ。」
「やっと、お父ちゃんの所へ行けたね。」
でした。それだけ語りかけると、もう涙があふれ出ました。
人としての生き方、、親としての生き方、夫婦としての生き方をその背中で見せてくれた母にタダひたすら手を合わすだけでした。
 兄が亡くなったとき、母が私に、
「私より、早く死んだらだめよ。それが、一番親不幸なんだからね。」
と言った言葉を思い出します。一人故郷から離れ、何も親孝行はしてやれなかった私ですが、最後の一つだけはしてやれたかなと思っています。
 故郷に帰る度に、母は元気な時は、必ず、私の好きな物を作って待っていてくれました。明日からは、そんな、強く、美しく、優しかった母の、戦後の手記を追悼の意味で連載します。読んでいただけると嬉しいです。母の死で、思考回路が混乱し、まとまりのない文章になりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。



2012. 07. 19  
夜中の1時に、母の訃報が入りました。明日の朝、私が行くまで生きていて欲しかったです。享年90才。意識を失うまで、「早く、おとうちゃんのところへいきたい、」と言っていました。ようやく父の元に行けて、ホッとしているかもしれません。本当に仲のいい親父とお袋でした。とても悲しいですが、最後の姿を見ていて、もう父の元に行ってもいいよと思っていました。もう苦しまなくていいよ,ゆっくり休んでねと言ってあげたいです。
しばらく、ブログお休みします。



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プロフィール

よたろう

Author:よたろう
経歴:
元自動車セールスマン、
元 教師、
元 教育委員会指導主事、
元 校長、
現在:フリーター
子 2人 ,2人とも結婚  
孫 3人
 経歴だけ見たら、すごく真面目で、堅物のようですが、いたって普通のジジです。ボケ防止のためにもブログを開設しました。多くの方々と交流できたらと思っています。
子育て、教育、政治、よもやま話しませんか。

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